1992年のポンド危機で10億ドルの利益を上げたことで有名になった著名投資家ジョージ・ソロス氏はいろいろな顔を持つ投資家です。
自身が設立したソロスファンドマネジメントLLCの会長でありながら、独裁主義に立ち向かうために南アフリカの黒人支援、東欧諸国の改革へ取り組んだり、ミャンマーの民主化運動に取り組みました。
ジョージ・ソロスの生い立ち
1930年、ハンガリーに生まれました。ユダヤ人であったために第二次世界大戦中には迫害される危険にさらされ、名前を変えて生き延びました。
大戦後は祖国であるハンガリーを離れ、イギリスの大学へ進学します。卒業後は金融業界への就職を希望していましたが、外国人ということで希望の就職先に行くことが出来ず、職を転々をする生活を送っていました。
それでも諦めなかったソロスは1956年にニューヨークのウォール街へ行くチャンスをつかみ、国際裁定取引の業務に付きました。
当時は欧州株ブームがきていましたが、当時のアメリカでは欧州投資に関する情報が少なかったため、欧州事情に詳しいソロスの分析レポートは評価され、外国証券のアナリストとしての地位を確実にしていきました。
そして、1969年には当時同じ会社に勤めていたジム・ロジャーズとともに「ダブル・イーグル・ファンド」を立ち上げ、1973年には「ソロス・ファンド」(クォンタム・ファンド)を設立しました。
「クォンタム・ファンド」は設立当初から10年間で資本金は40倍以上に上昇していきました。しかし、ファンドが大きくなりすぎたことで、ジム・ロジャーズと意見が対立し、1980年にはパートナーを解消することとなりました。
有名になったきっかけ
左からウォーレン・バフェット、ジョージ・ソロス、ジム・ロジャース
1992年、東西ドイツの統一により経済が上向きになり、欧州の金利は高目に推移したことで欧州各国の通貨高をもたらしました。
しかし当時のイギリスは経済が低迷しており、本来ならば通貨高になるべく環境ではありませんでした。通貨高の原因としては、ERM(欧州間で決められた中心相場に対して、±2.25%(一部の国は±6%)の範囲に各国の為替変動を抑えるルール)によって欧州通貨と連動していたため、ポンドの価値は歪み、過大評価されるようになりました。
ジョージ・ソロスはERMによってポンドの価値が歪んでいることを察知し、イギリス政府がポンドの価格を維持できないことを予測。
世界各国の銀行から当時のレートで1兆円2000億円以上もの信用枠をとりつけ、英国の中央銀行であるイングランド銀行を相手にポンド売りを始めます。
ポンドの価格が暴落していくことに気が付いた他の投資家たちも参戦し、徹底的に売り浴びせました。
もちろんイングランド銀行はその動きに対抗してポンド買いを進めましたが、資金が底をつき、ジョージ・ソロスに敗北する結果となりました。
このことがジョージ・ソロスを世界的に有名になるきっかけとなり、それ以来、「イングランド銀行を叩き潰した男」と呼ばれるようになりました。
ソロスはこの件で悪役としてのイメージが付きましたが、しかしこの出来事はのちにイギリス経済を改善させるきっかけとなります。
ポンドが暴落したことで本来の適正値になり、英国は公定歩合を引き下げることで輸出が増加していったのです。1990年から92年にかけて、イギリスの実質GDPは1.2%減少しましたが、ポンド暴落後の3年間は年平均で3.2%という実質成長を遂げたのです。
ジョージ・ソロスが行っていたサヤ取り
ジョージ・ソロスが本格的に投資の勉強を始めたのはニューヨークへ行ってからですが、ソロスがジムロージャースとクオンタムファンドを設立する前までは、サヤ取り研究会にて基礎研究をしていました。
サヤ取りとはアービトラージとも呼ばれ、同質の商品で価格が異なっている場合にその価格差を取ることです。
例えば大航海時代の胡椒はインドでは安く手に入りましたが、スペイン・ポルトガルでは金と同等の価値がありました。FXで言いますと、ある業者のドル円は110.12円なのに、ある業者のドル円は110.13円だった場合、私達の見えないところで高速取引がシステムが稼働して、10.12円で買い、110.13円で売られるサヤ取りが常時行われています。
ソロスが担当していたのも石油の国際裁定取引(サヤ取り)で、独自のアービトラージを開発して収益を得ていました。
サヤ取りの取引は価格や統計、ファンダメンタルズに注目するということで、テクニカルトレーダーが得意とするジャンルとは異なりますが、サヤ取りの知識があると、例えば現在はどの市場が活況なのか、どの市場に大きなお金が流れ込んでいるのかといったことがわかり、将来の動きがよめるようになりますので、長く投資で勝っていくならば必要な知識です。